Lost in Australia 

オーストラリアから 映画と英語と暮らしのことなど 色々と

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【映画感想文】Disgrace~恥辱~

寒さ一転うららかなブリスベンからこんにちは。

とはいえ今週の金曜にはまた冷え込むらしいのですが…。

さて 先日観たこちらの映画 Disgrace。
カズオ・イシグロ氏も受賞したブッカー賞をとった南アフリカ作家クッツェーの同名の小説が原作です。
不勉強なので名前を知りませんでしたが この作家さんの原作で Dust という映画も作られています。
しかもノーベル賞も受賞しており 現在オーストラリアに居住しているとか。

映画のほうは 主役のジョン・マルコビッチを除く 他の俳優さんは全然知らない人ばかり。

Disgrace (Movie Tie-in Edition)Disgrace (Movie Tie-in Edition)
(2008/11/04)
J.M. Coetzee

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またもやいつものAt the moviesでは絶賛されていたけど
監督さんはオーストラリア人。
なので ちょっと心配だったけれど無料で観られたのであまり期待しないでおきました。



さて映画を観た後 ガーンとショック というよりは
なんだか腑に落ちないままに終わった というのが正直なところ。

ハリウッドのように円満解決 というのは特に期待していなかったので
終わりに対して不満 というわけではない。

タイトルのDisgrace/恥辱 といっても
主人公の味わう転落が恥辱 というには???みたいでもあり
主人公の娘 ルーシーの選択がすべて西洋文明では恥辱である ということなんだろうか
とも思うけれど このルーシーの選択がまったく意味不明。

アマゾンのこの和訳で書評を書いていらっしゃる方の中にも
この南アフリカの現実を反映していると絶賛されていても
やはり このルーシーの行動に疑問を覚えている方もいらっしゃった。
本を読んでそうなら映画じゃなおさらわからない。

主人公ラウリーの転落は いわゆる西洋古典文学ではよくあるパターン。
地位も名声もある男が 思わぬところから足を救われ
性悪にふるまってさらに転落。
日本で言えば太宰みたいなってとこ。
大体バイロンだのロマン派の詩人を専門にしてるのも
どうにもあざといし 自分ってそういう「ワル」なんだ!
世間様から反逆~って 50歳過ぎてもそんなことやってる
ちょっと子供じみた とでも言えばいい性格。

娘のルーシーはこういうエロ親父に反発してるのか
ヒッピーになり 同性愛者になり 田舎に引っ込んで 花を市場で売って生計を立てている。
まったく親父とは反対になったわけですが
ラウリーは離婚2回 ルーシーもそういう面ではうまくいってない と
ちょっと似たもの同士。

このルーシーという女性を通して 南アフリカでの今までの白人と黒人の関係が
逆転している ということを描きたいのだ とはわかった。 
ルーシーが代表する 今まで支配側だった白人が 
好意で住まわせてあげていた黒人のせいで巻き起こる
理不尽な事態の連続により 居住地のみならず
生命 安全までも脅かされ ついには黒人の支配下に置かれてしまう。

ルーシーは自分で選んだ土地にどういう状態でもしがみつき
望まぬ子供を産み 男の支配下におかれて
犬のように生きていくしかない。

それが恥辱 ということなんでしょうが

でも根本的に違いやしない???

だって南アフリカの黒人には選択肢がなかったんだもの。
反逆すれば投獄処刑され 強姦されようが女性には人権すらない。
それがかつての現実だったのだが
ルーシーには選択の自由がある。
恥辱と思われるさまざまな事柄は 選択次第では避けられるものばかり。

なのでそれを受け入れるのが現実的だ
という主張は なんだかピンとこないし
もしかして それが今まで暴虐の限りを尽くしてきた白人側に根底に流れる
謝罪や贖罪を意味しているのだろうか?とも考えたけれど
どう考えてもこうした選択は自己憐憫にしか過ぎないようにしか思えなかった。

ルーシーが女性だ ということで
白人種の暴力の中 異人の子を宿しても
それを自分の子である以上 現実として受け入れていかなくては
という点でも 現実の受け入れ と重ねているのかもしれないけれど
同時期に「その男 凶暴につき」を読み
その中に登場する女性刑事が同様な選択をするものの
そこには

「人の命を奪ったから もう命を無駄にしたくない」

という 納得のいく説明がされていた。
ルーシーは

「子供の親がとんでもないからって 子供を嫌う理由がない」

というけれど 現実問題 そのとんでもない親のそばに住み
毎日顔を合わせる状況で その子供を愛せる
少なくとも大事にできるのか と考えたら
そんなの無理 という結論を出す人も多いのでは。

こうした描き方には
女性なら母性があって当然
みたいな思い込みが見られて
やっぱり男性が作者だとそうなっちゃうのかな。

作中で犬のように生きる とかあって
西洋文化では犬=情けない生き方 みたいにとらえられているけれど
犬だってつがうときには基本的にメスが相手を選ぶんだけど。
勝手に自分たちの人生観を投影される犬のほうが迷惑かも。

偽悪的な人間だったラウリーが 自分の中に存在していた人間性を回復する映画 とすると
ある意味爽快で納得のいくものではあるのだけれど
それにしても映画では最後でラウリーがめぐり合う犬の処理のあたりで
なんかそこにも もやもやっとしたものが生じてしまう。

小説ではそのあたりきちんと書きこまれているのでしょうが
映画だと セリフひとつだけなので ???そうなるわけ???と 
動物好きにはようわからない世界になってしまう。
ラウリー自体が人間嫌いなので まあ犬程度ならそんなもんなのかもしれないし
甘っちょろい処理をしていない という点で認められたのはわかるけれど。

それほどまでに南アフリカの現実はひどいんだ!という主張は
よくわかるけど 現実を受け入れるということと
悪い事態をわざとに「現実」として認めるというものの間には
選択という主体が介在しているだけに 
それはバイアスのかかった「現実」なのではないかしら。

とりあえず 読んでおけリストには追加することにします。
英語も難しくないらしい。

和訳はこちら↓
恥辱 (ハヤカワepi文庫)恥辱 (ハヤカワepi文庫)
(2007/07)
J.M. クッツェー

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